第三章 ジェイムズ経験論の発展

第三節 宗教思想について─その経験論的性格─

 ジェイムズの宗教思想の特徴はそれが経験論的であるということであろう。宗教が純粋に経験論として考察されることがむつかしいとされているのは経験論が事実以外のなにものにも目をむけない学的態度を強調するのに対し、宗教は事実の存在の有無に関わりなく、あるいはむしろ事実に反する対象への関わりとして理解されているからである。ジェイムズはかつて経験論が反宗教と結びつけられていたのは「奇妙な誤解」(1)からであると考え、「一度、経験論を宗教と結びつける」(2)意図のもとに、自らの宗教観を確立しようとするのである。
 それではジェイムズにとって宗教とはいかなる意味をもっていたのか、又ジェイムズの考えるような経験論的宗教なるものがはたして存在しうるのであろうか。われわれは今までジェイムズにおいては神や絶対者は理論的にのみならず、実際的にも無意味な存在であるどころか有害な存在であると考えてきた。このような観点にたつならば、われわれははたしてどれだけジェイムズの意図を好意的に理解できるのか。もしあえて彼のこの意図に忠実であろうとするならば、われわれはジェイムズにおける宗教観を従来のそれと基本的に異なっているものとして、そして従来のそれからの偏見をのりこえた全く新しい考えとして解釈する必要があるだろう。しかも驚くべきはジェイムズが宗教を彼の経験論から派生してくる二義的存在であると考えていなかった点である。むしろジェイムズの思想は宗教を中心にして展開されていると判断されても決して間違っていないともいえるふしがあるのである。それ故、E・ハードウィックが「ジェイムズにとって宗教は……耽溺せるものであり……彼のパーソナリティのすべては宗教にとりつかれている」
(一)といってさえいるのである。
 これらの諸点はわれわれにとっては誠に興味を与えるものであろう。ジェイムズにとって宗教は、いかなる宗教であれ、「生に対する人間の全体的反応」
(3)であった。かかる反応は一種の情念的本性の働きそのものとして人生に対する奮闘的気分を醸成するものとして位置づけられている。そしてその際、その反応の主人公たる人間の精神においては、有神論的思想であろうが、無神論的思想であろうが、かかる奮闘的気分を醸成するための信条がなんらかの形でめばえておれば、それはすでに宗教的なものになっているのである。従ってジェイムズの宗教論は教条としての宗教観の吐露ではなく、第一章第一節であきらかにされている如く、彼の生活態度、生活信条がそのまま宗教的諸対象にふりむけられた場合に、いかに適用されているかがのべられたものにすぎないのである。ジェイムズは教条や教義そのものを絶対視し、その必要性を説いたり、既存のそれらに代わる宗教の教祖のエピゴーネンたらんとはしない。又教条や教義の学問的研究を唯一の目的にし、立派な神学を確立し、それでもって他の賛同をえる如き、宗教学の権威者たらんともしない。
 ジェイムズにとって大切なのは個人がいかに宇宙をうけいれるか、ということ、いいかえれば「個人が自分の個人的運命に関心をもつ」
(4)ということなのである。しからば、特にその態度が宗教的だとされる所以はどこにあるのか。ジェイムズは次のようにのべる。「宗教を生かしているものは何か抽象的定義や論理的に連結された形容詞の体系より他のものであり、神学部とその教授等と違ったものである。これらのものはすべて具体的宗教経験の一団の後にある余波であり、二次的付加であ……る。具体的宗教経験とは何かと問うならば、それは人がある適切な方法に自分自身の内的態度を整えたときの、みえざるものとの対談、声と幻、祈りの応答、心の変化、恐れからの救い、助けの到来、助けの確証である。力は来たり、去り、失われる。そして具体的な物質的なものの如く、ただ一つの定まった方向にのみ見出される。われわれの表面的な意識と連続しており、且つそれと強烈な文通をもつより広い霊的生命のかかる直接の経験が、すべての受けうりの宗教の基となり、常に臨在する神の考えを与え、それに関する組織神学が自身の非現実的衒学的な仕方で利用するところの、直接的宗教経験の本来の集団である。『神』という言葉が意味するものは、ただわれわれの生活のそれらの受動的及び能動的な経験である。」(5)
 ジェイムズが宗教において具体的宗教的経験を出発点としているのは彼の学的態度からは当然である。「端的にして純粋な個人的宗教に限定したい」
(6)としてテーマをしぼるジェイムズにあっては、個人的宗教は神学や教会万能主義の拘泥によって生じる宗教よりも、より人生の根本にふれている、と考えられている。さて個人的運命に関わる個人の関心は様々な形であらわれるだろう。人間それ自身の内的な性向、彼の良心、彼の功罪、無力さ、不完全さ、まさにこれらに関わることこそ宗教的生活なのである。われわれはジェイムズのこの宗教観を、彼自身もいう如く、「人間の宗教というより、人間の良心あるいは道徳とよんだ方がいい」(7)かもしれない。
 ジェイムズにおいて宗教と道徳は根底において一致している。なぜならばそれら両者の全関心はわれわれの宇宙の受けいれの様式に関しているからである。そしてそれらの学的考察は終極には「人間性の研究」のためになされている。従って人間の宗教的関心とは人間性に根ざすところの本質的な諸要求から出発するものであり、その意味で良心、道徳とよばれようが、あるいは宗教とよばれようが、それらにはすべて彼の「人間性の研究」にとって本質的な差異はないのである。
 このことは「人間性の研究」の素材が宗教的経験を通じて提供されうるということの主張にもなり、逆に宗教的経験が非現実的要素をかなぐりすてた血のかよう人間の日常的体験そのものでなければならないことの示唆にもなる。そしてこの考え方の徹底はわれわれに経験論的宗教の可能性を与えてくれるのである。それは従来あったところの非宗教的経験論と超経験的宗教論の理論的絶対的断絶を除去し、双方の要請を認める調停的理論を有している。しからばジェイムズの願っていた非宗教的経験論との摩擦なき結合は具体的にいかなる見地において実現せられているのだろうか。
 ジェイムズが自らの宗教観を第三者に訴える理由として次の二つをあげている。一つは宗教を一部のものに属するものと考える人達に対し、宗教が万人の心的対象であることの警告であり、他の一つは宗教に全く無関心であるか、むしろ宗教に反発を感じている人達に対し、宗教の重要性を理解させるための忠告である。ジェイムズのこのような意図は、実は『宗教的経験の真相』よりも、『信ずる意志』の中において「宗教的信仰の合法性の擁護」
(8)をするという形でよりあらわにされている。ジェイムズの念頭にあったものは、まず「感覚の事実、ないしは科学の成果は宗教的総合においては問題外であるとしてはならぬと主張することによって狭い教会的伝統の拘束を打破し」(9)、同じように「せまい科学的伝統の形成を回避し」(10)、その結果ジェイムズの考えているところの次のテーマ、即ち「われわれの行動的情緒的傾向が存在の形態、実在の関係へのアプローチの唯一の道である」(11)を問題外たらしめるいかなる総合の拘束をも打破することであった。
 ジェイムズはそれを次のような論点に求めている。宗教的行為の典型としての信仰が慎み深さを忘れ、独断的排他的傾向をもつ場合でも、その信仰箇条は、宗教の歴史があきらかに示しているように、別のそれにとって代わっている事実、信仰のもつ一元論的権威もそれだけをもってしては、他の信仰を所有する者に対して絶対的影響力をもたないということ、いいかえれば「自分自身の危険をかけて信仰に没頭する個人の権利」
(12)は認められても、他の信仰もまた厳然として存在するのであり、それに干渉できない、ということである。これらはジェイムズの個人主義的な考え方に由来しており、宗教的信仰の独断論的、一元論的特性を独断的に肯定してはならない、という意味で「警告」となって主張されているのである。
 他方、かかる信仰の打破と刷新の必要性が叫ばれると同時に「信仰のための素朴な能力の麻痺状態と宗教的領域への内気な意志欠如abulia」
(13)も又一掃されねばならない、とジェイムズは考える。ここでのジェイムズの主張の力点は、特に科学者の態度にみられる如く、宗教を積極的に否定しようとしたり、反発を感じたりする者に対し、宗教の本質をいかに理解させるかにあった。
 現代的思考法を決定的なものにした科学的なそれは、今や、宗教を「遺物」として高言するにはばからない。この危機的風潮に対し、ジェイムズは宗教的信仰を私事の問題だと侮辱する「科学者達と科学の領域外における彼らの盟友」
(14)を自分の公然たる論敵である、と語気強く非難する。「自分自身の危険をかけて自分自身の信仰に没頭する個人の権利」は現代においても正当に評価されるべきであり、科学的法則が人間に「よく作用して」行為の導出に整合するように、宗教的信仰も又人間的行為の導出のために重要な位置を占めている、とジェイムズは主張する。
 ジェイムズのこの主張の根拠は科学的検証のなしえない場合でも、人間は行為のためにある態度を決定しなければならないことがある、という経験的事実からきている。事実に関する知的把握の困難性が存するにも関わらず、科学者はそれを打開する科学的証拠の存在がすぐ手近かにあらわれるのだと盲信する。このために彼ら自身の行為の本質が見失われ、行為そのものの過程にディレンマをよびおこすことになると彼らは気づかない。ジェイムズの著『信ずる意志』は実際的見地からみて、かかる操作にも逡巡する「科学」の領域外のところにおいても、検証の困難性を認容しつつ、同時に行為自身をうみだそうとする「信ずる意志」の働きによって真理が生まれてくることをのべようとしていたのである。
 ジェイムズは科学万能主義の風潮に対して、それに溺れることをさけ、日常生活において科学の領域外の態度決定が恒常的に発生することをあきらかにし、信仰の余地を残したのである。かかる考えから、彼は「科学はありとあらゆる宗教的仮説を顧みるだにないものと断定した」
(15)と主張する科学者や「宗教的信仰は私事の問題だ」(16)とし、それを公表することを迷惑な話だと思いあがっている人達の目を開かせ、人間性に根ざす宗教そのものに対する「意志欠如症」を解消させたかったのである。
 それではわれわれはいかなる点においてジェイムズのこの主張に同調するのであろうか。それはジェイムズの考えのもつ理論的明快さというよりも中庸を愛しその中でなんとか実りをつくりだそうとする日常的生活感覚からくる心情に対してである。何が本当に真実であるかをきめる具体的基準に関して意見の一致のみられたことはなかった、というのがジェイムズの認識論的相対主義をしめす典型的な考え方であり、しかも変わらざる信念である。
 非宗教的経験論(科学主義に代表される)も超経験的宗教論(独断的スコラ的有神論に代表される)も、デカルトの神の誠実性によって保証された明晰判明な観念、リードの常識、カントの先天的総合判断の諸形式の如き知覚の契機を主にする基準、あるいは啓示、一般的一致、心情的本能、民族的経験の如き知覚の契機外の基準をもってしても、確固たる地位を築きえなかったのは歴史的事実である。「実際に人が根拠とする確証が真に客観的な標識であるという確信はその定めにつけ加えられたもう一つの主観的意見にすぎない」
(17)とジェイムズは考えた。要するに人間の能力の限界性はまがうことなく存在しているのであり、ジェイムズの言葉に従えば「最後の」人間の発言、判断、行為がなされるまでは究極的真理についてわれわれはとやかく言える筋あいではないのである。
 この考えからわれわれはジェイムズが究極的に真理そのものの存在を否定的に考えていたとするのは誤りである。正しい見解は究極的真理を想定しながら「無限の自己修正と増殖」
(18)の作用を通じ、経験論的、改善論的にそれに近づく、という過程にわれわれがたたされている、ということである。ジェイムズはこの方法的解決のために科学の役割がきわめて大きいものであると判断し、科学的思考様式の重要性を認めていたのではあったが、「存在するもののことだけを語って、存在しないもののことは語らない」(19)科学の限界性がわれわれの当面の行為の対象に対して「信ずる意志」を機能させるに完全ではないことを不満としたのである。人間的行為にとって重要なことは行為する人間に「信念」を与えることであり、たとえ不確かな結末であっても、それに対して前もって抱くわれわれの確信が、ただそれだけでもって、その結末を真実化させる役割をはたす場合があることにわれわれは気づくべきである。
 さてここにジェイムズの宗教観の骨子がみいだされるだろう。われわれが存在しているとはっきり断定できないものに対しても、それを「神的なもの」と考える場合、それに対するわれわれの感情が情緒的に触発され、普段以上の行動のエネルギーが生みだされるものだ。目にみえないが生き生きとしたリアリティをもっているものの存在、それを信じて行動に走ることこそ、ジェイムズの宗教観の根底にあるものと考えられるのである。
 ジェイムズは次のようにいう。「私は宗教を超自然主義的な意味において使う。その意味は、この世の経験を構成するいわゆる自然の秩序は全宇宙の一部分にすぎず、この目にみえる世界の彼岸に目にみえない世界が広がっており、それについてわれわれは積極的ななにものも知らないが、それとの関係において現世の生活の真の意義がある、ということである。」
(20)この見解は年を経るごとにジェイムズの頭脳の中で凝縮され、『宗教的経験の諸相』の中では簡潔にして要をえた言葉で次の如くに見事に表現されている。「宗教とは、人間が個人として孤独の状態にあるとき、神的なものと考えられるいかなるものとの関係に自分があると理解する限りにおいて生じる自己の感情、行為、経験である。」(21)
 われわれはこの言葉の行間において科学的立場の絶対性に対するジェイムズの否定的態度及び「神的なもの」の認識よりも「神的なもの」のわれわれに対する作用の方がいかに重要であるかを理解しなければ、ジェイムズの宗教観を理解できないだろう。「神的なもの」の認識はそれ自身によって価値あるのではない。すでにそれの科学的哲学的追求は行為にとって意味のない不可知論、あるいは神秘主義
(二)にわれわれを導いている。問題なのは「神的なもの」に対するわれわれのとらえ方が行動のエネルギーとなるようであれば、「神的なもの」の存在の確信だけでわれわれの宗教的生活の価値が形成される、ということである。換言すれば、「神的なもの」の存在の有用性がわれわれに対して働いているのであれば、「神的なもの」の価値は存在するのであり、従ってかかる観点からの「神的なもの」のとらえ方こそわれわれの認識のために便法的可能的な道を与えてくれる、ということである。
 実際われわれはジェイムズのこのような宗教のイメージについて、あまりにも広範囲であいまいであるとの批判をもつかもしれない、あるいは感情、行為、経験の一切が宗教的対象であるとするならば、人間をとりまくすべてのできごとは宗教的要素をもっているのではないか、との疑問が生じるかもしれない。その疑問は正しくもあり、見方によっては誤っているだろう。われわれの姿勢が宗教をひとつの「原理的なもの」「本質的なもの」ととらえることにあるのなら、ジェイムズにとってそれは誤りである。宗教の定義が無数にあり、しかもその各々が異なっている、という事実を如実にうけとり、宗教とはむしろ「ひとつの集合名詞」
(22)にすぎない、と考える方がジェイムズの賛同をえるのである。
 従ってわれわれが宗教を特定の宗教的行為、特定の宗教的対象としてみる傾向は宗教的存在のあり方を歪曲していると考えられねばならない。特定の感情、行為、経験はなにひとつとして存在しないのであり、「さまざまな宗教的対象によって誘発される感情の共同倉庫」
(23)が存在しているのみである。「神的なもの」の存在についてもこのようにとらえるのが正しい考え方なのであり、特定の「神的なもの」を求めるわれわれの態度は誤りといわれねばならない。もしわれわれが前述にあるジェイムズの宗教観がもたらす現実的な生活を一般的に特徴づけるよう求められるならば、それは「みえない秩序が存在しているという信仰及びわれわれの最上の善はそれに対しわれわれ自身を調和的に適合させることにある」(24)というだけで十分であろう。
 かかるジェイムズの宗教観は一体どこから導きだされてくるのだろうか。それはジェイムズにあっては宗教が体験的宗教であり、個人にとっての宗教であるからである。それは又個人の意志を無視してはあるいは個人の感情を除いては生まれでないものとして位置づけられる。ただしこの考えは宗教の世俗化ではない。むしろ人間の活動原理に関係するが故に、宗教の原点をとらえているとうけとられねばならない。そしてそれはジェイムズのいうところの「宗教が報告するものは常に経験の事実である」
(25)という宗教の意味づけと矛盾するものでは決してない。もし宗教が単に経験の事実以上のものであるとされるならば、形而上学者が無駄な言葉の遊びをするような、益なき所業にわれわれは埋没するだけである。
 だがここにジェイムズの宗教観の導出されてくる理論的根拠がジェイムズの考え方それ自身からもあきらかにされている点をわれわれは見落としてはならない。それはジェイムズのプラグマティックな考え方である。この考え方はもともと事物の取りあつかい方であり、そしてはてしもない形而上学的論争に終止符をうつためにうちたてられている教説であるが、ジェイムズがそれを真理論にまで発展させた時に、彼の心中にあったのは宗教についての認容であったと考えられるほどである。なぜならば宗教とはまさに目にみえないもの、われわれの意識の中にある内容をもったなにかであるという形で対象化されたものを想定しているからである。それをいかにして経験の事実として考えうるようにするか、これが宗教に対する積極的意義を認めようとしていたジェイムズの現実的課題でもあったのである。
 そこでもしジェイムズのプラグマティズム、特にその真理論がそのジェイムズの要求をみたすとするならば、それだけで様々に批判されている彼のプラグマティズムはその思想的価値をもっているといわれうるだろう。事実、ジェイムズのプラグマティズムは宗教を認容するためにあったと評価されても何ら不思議のない理論性をもっているといわれるふしがあるのである。われわれはジェイムズが宗教の問題を「生に対する人間の全体的反応」として処理しようとした点からもすでにこの推定の根拠を与えられている。
 この点をあきらかにするために、われわれは前節及び前々説とは違った観点から再度プラグマティズムについて考察する必要があるだろう。プラグマティズムの真理論によれば、人間の行為の対象は人間に対して有効的に働くかどうかによって規定されていた。その意味で有効的であるとするのなら、ジェイムズにあっては宗教的願望、思惟、経験を含めた一切の宗教的対象は「要求されて存在する」
(26)ようになるのである。この際宗教的対象の存在認識は論外として位置づけられよう。
 プラグマティズムが宗教を導きだすあり方とは、宗教的対象がなんであるかを究明したり、宗教的行為の神秘化、絶対化を意図するのではなく、宗教的対象と考えられるものが人間の精神を直接的、間接的にゆさぶりおこすという事実を抽象して考えているにすぎない。その結果、われわれが宗教的行為をしている、と感じとられるならば、その過程のすべてがプラグマティズムの宗教についての説明の一切であるといえよう。このことからプラグマティズムにおいては「人間に対して有効的に働く」ものの内容が行為者の諸要求の充足あるいは彼個人の満足であることが推察されよう。
 要するにプラグマティズムの宗教観は人間中心的anthropocentricに展開するという意味で功利主義的特徴をもつところの名をかえた倫理学なのである。この論理をおし通した際に生じる困難性に対し、ジェイムズは「宗教」に対してもつわれわれの偏見をうちくだくために二つの前提を用意する。その一つはプラグマティズムが「宗教的religious」という言葉の意味は「厳粛solemnにして、まじめなserious、柔和なtender」
(27)もの以外のなにものとしても結実しないことを明言することである。もう一つは宗教における至高の問題である「神」については、前者と同様「個人が呪いや冗談によってではなく、厳粛にして、荘重にgravelyに応じるよう強いられると感じるような根源的存在」(28)を意味する以外のなにものでもないことを確認させることである。
 それらはいずれも宗教を人間的次元に還元している点で共通している。又神が根源的存在であるとはいえ、それは普遍的、絶対的存在なのではない。神の存在も又人間の立場からみて、経験的判断から、不適当なものは要求されず、従って否定される運命をもっているのである。その意味では従来の神学上の金科玉条はみる影もなく、神はあわれにも人間に利用される器具になりはててしまっている。
 それではもともと形而上学的論争の調停的役割をはたすために登場したプラグマティズムが宗教的存在をも規定するに至ったのはいかなる根拠に基づくのか。それはパースをしてジェイムズのプラグマティズムを「自殺的suicidal」
(三)とよばしめ、パース自身のそれをプラグマティシズムpragmaticismと宣言せしめたところの「実際的結果」の拡大解釈である。前節で触れたように、パースは実際的結果の意味を「概念の予示する検証可能な経験」に限っていた。しかしジェイムズはその他に「概念を信奉することによってもたらされる結果」「概念自身の与える感情への訴え」をも含めていた。(四) ジェイムズは次のようにいう。「神学的諸観念が具体的生活にとってある価値をもっているとわかるなら、それらは、それだけ善であるという意味においてプラグマティズムにとって真であるだろう。」(29)
 かくの如くプラグマティズムの真理論が宗教的対象についての思惟可能性を保証するのは、概念(観念)の信奉、感情への訴えによって生じる宗教的観念の有意味性以外のなにものでもない。この観念の有意味性の内容において、ジェイムズはプラグマティックな方法である「簡単なテスト」にかけられた宗教的観念が現実生活に影響を及ぼしていること、又それがわれわれの生活に有用な作用をしていること、という諸結果に基づいて観念の真理、いいかえれば有効性が実際的結果として検証されているとする。ここにわれわれは観念の有意味性が科学的な意味での「存在するもの」以外の対象を、即ち宗教的対象をも含みうることを主張するジェイムズのプラグマティズムの方向性をみるのである。さすればこの有意味性が人間にとって行為的影響力を及ぼしているという点だけで、いいかえれば有効性があるという点だけで、根拠づけられて主張される宗教的観念の真理はその限りにおいてのみ妥当するといわれねばならない。
 その意味ではジェイムズの宗教的対象の思惟可能性の根拠は宗教的観念が人間の本性内にうえつけられ、それを信ずること、又それが人間にある感情をよびおこすこと、いいかえれば「われわれの生活に有益でprofitaleある限りにおいて真である」
(30)という点にあるといえるだろう。かかる観点からは、ジェイムズの宗教的「真理論」は真理の有限性を本質とするものであり、この限定的真理を根拠として、宗教的対象の如く、厳粛─荘重にして崇高な次元のそれを自家薬籠中のものとしてわれわれは処理しうるのか、という疑義が生じる。しかしながらこの疑義にはジェイムズの批判する主知主義的「真理論」による影響がある。宗教的観念と宗教的実在は別個にあり対応しているものではない。たしかに真理は実在と観念の一致であるのは「自明のこととして」(31)承認される。とはいえ一致しているということは何もそれによって宗教的対象を普遍たらしめているということにはならない。
 プラグマティズムが一致の内容を吟味した場合、それは「実在か実在の周囲にまで直接的に導かれるか、あるいは実在か実在とつながりをもつ何かを、一致しない場合よりも、よりよくとり扱うような実在との作用する接触を保ちうるか、のいずれかを意味する」以外のなにものも導出しえないのにわれわれは気づくだろう。ジェイムズにとって真理とは「導きの作用」があるかどうかによってきめられてくるのであり、従って「われわれに有益である限り」での真理は、それによってある意味では限定されているとはいえ、決して宗教的対象を包摂しえないのではない。むしろ「われわれに有益である限り」において、感情的発露が認められるのであり、そしてその仕方が厳粛にしてまじめであればあるほど、それは宗教的であるといえるのである。従ってわれわれが宗教的対象に関わっているということは真理の有限性ないしは普遍性とは直接的に関係はないのである。真理の有限性即ち真理が特殊的にあるということはわれわれの宗教的感情へと訴えやすいという意味においては、宗教と結びつきやすく、従って現実にはそうであるとうけとられてもよいのである。
  ジェイムズの宗教観は人間的能力の限界性を十分にふまえた上で、尚且つその範囲内で最高の人間的行為の追求の可能性をわれわれにしめしている。しかもそれは他の哲学的諸論理の如く、論理的必然性をともなっているという形態をもっていない。プラグマティックにその宗教的真理をあきらかにした上で、それは最後には「われわれの性格全体と個人的資質」に期待をかけようとするのみである。その意味でかかる宗教観は神に振りまわされる過去の御用神学のそれとは違って人間本位にくみたてられているといえるのである。
 しかしながらわれわれはそのことによって神の有限性という矛盾せる概念に注目させられるのではなかろうか。有限的存在たる人間に根拠づけられる神の存在は必然的に有限的にならざるをえないからである。今までの論述から判断すれば、どうもプラグマティズムの神は、第一に人間に利用される神のようであり、第二に様々な人間によってばらばらに思惟される神のようである。これらによって必然的に帰結されるのは神の多元的存在の認容である。それは神の有限性の表明以外のなにものでもない。
 この見方に対しジェイムズはどのように考えていたのであろうか。この時もやはりプラグマティックなテストにかけられ、「神の無限性」が実際的結果としていかなることをしめしているのかが問われるであろう。そしてわれわれが知る限りでは「神の有限性」と比較した場合と本質的に異なっていると誰が断言できようか。「有限性」「無限性」という概念の分析、検討を詳細に行ったところで神の実在にはちっとも触れていないのである。神は有限でもあるし、無限でもある。神は唯一でもあり、複数的でもある。このような解答は主知主義者、合理論者に十分なる満足を与えるものではないだろう。しかしながら神の実在についてどれだけ触れているのかの観点にたつならば、プラグマティズムがより親しみのあるintimate態度であるといえるのではないだろうか。プラグマティズムは、実際において、方法としては神の有意味性の意識をわれわれの感情によびおこさせ、態度としては人間の「信ずる意志」の作用を通じて神の存在を可能ならしめるのである。
 神は人間の要求の産物である、という意味で限定をうけているにすぎない。ジェイムズにあっては神は人間の要求と行動に対応している。人間の要求と行動が多様であるように、神のそれらも多様である。人間はたえず自己改造と創造をするように、神も自己自身を変えていく。即ち人間には完全という言葉が妥当しないように、神も又完全ではない。そして神の真理とは人間の真理である以上のなにものでもない。ここにおいてわれわれは神と人間とを絶対的な壁をおいて対置させ、神の恩恵の与えられるのを手をこまねいて待っている如き、一般的神学的態度とは絶交しているプラグマティズムの真の姿をみるのである。(六)なぜならば神と人間との間に絶対的断絶があるならば、即ち人間の諸要求、行動にこたえてくれない神があるとするならば、人間の方がその神をみすててしまうからである。
 しかも注意すべきはジェイムズは人間の飛躍した姿として神を求めているのではないということである。われわれの通俗的見解の底流には依然として神が無限的存在であり人間はそれと違う有限的存在であるとする区分の前提があり、われわれはそれをぬぐいきれないでいるが、ジェイムズによれば、人間がある種の外的な力によって神に昇格していくのではなく、人間であり神でありうるのである。人間が神と同一になるには人間自身の経験的努力、奮闘的努力があればよいのである。神と人間は人間の知性がわれわれの実際的必要性から概念的に区分したものにすぎない。神がわれわれの前にたちあらわれるのは、それがわれわれにとって必要な時のみである。そしてこの「われわれにとって必要な時」とか「われわれにとって有効的な限り」における神の出現が、説明されるべきジェイムズの神の実体のすべてなのである。
(七)
 それではわれわれに必要な時、要求され、現出するところの神の存在はジェイムズの「真理論」にてらしあわせれば、いかなる形をとるのであろうか。今までの主張から推測すれば、それはわれわれが単に神を要求したとき、無原則に神が現出する如き機械性をもっているようにみえる。しかしここで注意されねばならないのは、その間にわれわれの意志的行為が介在し、その過程でなんらかの選択がなされていることである。即ちわれわれには神の存在についての知的な把握が不可能であるにもかかわらず、われわれは神の存在を信じてある行為をするか、あるいは神の非存在を前提にしてある行為をするか、そのどちらかを選ぶかをせまられているのである。
 さてそのいずれの場合を選んでも、実際的結果が出てくるのであるから、それぞれに応じた真理の認容はなされるだろう。その際われわれは一方の真理を獲得し、他方の真理を失うだろう、とジェイムズは考える。とはいえ有神論的立場を哲学的気質とするジェイムズは、勿論、神の存在を信じて行為する前者を採用する。この時もやはり彼自身のプラグマティックな考え方が根拠となっている。神の存在を信じるものはそうでないものと比較して、具体的行為の結果においてあきらかに差異がある。神の非存在を前提にする者はいかなる経験が彼にともなおうとも、神との触れあいはない。いわば無から有を輩出せしめないのと同じである。
 しかるに神の存在を信じる者は、そのことによって、神の非存在を前提にする者と比して何をより失うというのであろうか。むしろ実際において神の存在が彼とともにあることが実現されなかったとしても、彼に与えられた希望は生きるに値する人生の保証人となり、場合によってはいつか神とともにありうるかもしれないのである。この可能性は神の存在を信じる者のみに与えられる権利の保証であり、われわれはこの権利を現実に所有しているのである。そしてこの権利の行使はいかなる外的拘束によって制約せられることなき、人間の自由の発露であるとするならば、どうして神の存在を信じないで行為するということがありえようか。
(八)
 このなかにわれわれはジェイムズの有神論的考えの基調をみるのである。ジェイムズのプラグマティズムは、それ故に宗教的経験の是認をしているという意味で宗教を科学的偏見から解放させるのに役だった、といえるだろうが、それはジェイムズに対するわれわれの消極的評価にすぎないであろう。むしろわれわれは「信ずる意志」が人間に本性として内在しているという事実を重視し、そこからジェイムズが有神論的立場にたつことを有意義にとらえ、そして人間生活において宗教をきわめて重要な位置におこうとしていることを察知するならば、それはジェイムズの宗教観に対するわれわれの積極的評価となるのではなかろうか。しかもこの考え方が明確に経験論的立場からすすめられていることは、かかる宗教的判断がわれわれの日常的経験の事実から導出されていているのをみても、あきらかなのである。

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